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Diaryではない何か。

続・はてなブックマークは誰のものか

前回はてブについて「自分にとって、もはや必要のなくなったエントリーを自由に消してしまうことにもプレッシャーが生じる(ようになる)のではないか」と書いたけれど、今年2006年はマナーという言葉をバックに、この「はてブはずし」を心理的に抑制するムーヴメントが顕在化するのではないかと予想している。


はてブ自体は、「1人は自分のために、気付けばみんなのために」というソーシャルブックマークの理念をあらわす言葉もあるように、一人ひとりが自由にブックマークすることによって結果的に集団の意見を集約した集合知が形成されるものとされている。


マナーを口にする人たちは、この集合知の形成よりも、ブックマークしたエントリーの向こう側にいるブログの管理人の存在を気にかける。勝手にはずしたりしたら申し訳ないと考えるのだ。


興味の対象は刻々と変わるもの。興味が変わればブックマークの傾向、時にはジャンル自体も変わってくるだろうから、それに合わせてそれまでのはてブの中身を整理するのは当たり前のこと。

でも「はてブの半分はおもいやりでできている」と信じたい人たちにとっては勝手にはてブをはずす行為はマナー違反となる。
考えてみると、こういう心理は従来のホームページにおいて、断りなくリンクを外されたことを嘆くメンタリティによく似ている。


はてブを「人と人を繋ぐツール」として見る人と、あくまで「情報と情報を繋ぐツール」として見る人と、はっきりとではないにしても今後分かれていくのではないか。

はてブを情緒でクリッピングする人が増えると、その集合知の信頼性はそれに反比例するように低下するだろう。


一人がみんなのことを考え始めたら成立しなくなる。それがはてブ品質。
ブクマの整理が情にとらわれてためらわれるようになってしまったら、旬を過ぎた情報がノイズとしていつまでも居座り続けることになる。

情に流されたはてブなんか見たくないし、使いたくもない。


参考サイト:
伊藤直也の『アルファギークのブックマーク』
はてなブックマークの可能性
プライヴェートの集合体としてのソーシャル